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阿倍野の街も、少しずつ柔らかな春の空気に包まれています。

三月といえば、桃の節句。

この時期の日本料理に欠かせない食材といえば、やはり蛤です。

懐石・会席の席でも、春の訪れを告げる品として古くから大切に扱われてきました。

漆塗りのお椀の蓋を外し、そっと両手で持ち上げる。

その瞬間、ふわりと白い湯気が立ち上り、澄んだ出汁の香りが鼻をくすぐります。

今年の安来家では、蛤をそのままお吸い物にするのではなく、少し手をかけて真薯(しんじょ)に仕立ててお出ししています。

お椀の中央に据えられた、真っ白でふんわりとした真薯。

ここには、細かく刻んだ蛤の身だけでなく、蛤から丁寧にとった出汁もたっぷりと練り込んでいます。

箸をそっと入れると、柔らかな真薯の中から、蛤が持つ豊かな潮の旨みが、澄んだお出汁のなかへじんわりと溶け出していきます。

食べ進めるにつれて、お椀全体の味わいが少しずつ深みを増していく。

そんな、春先ならではの繊細な味の移ろいを楽しんでいただけるよう整えました。

そして、真薯の手前に寄り添うように添えているのが、新物の若布と筍です。

椀の黒を背景に、若布の深い緑と筍の淡い黄色が鮮やかに浮かび上がります。

これらは単なる彩りとしての「あしらい」と呼ぶにはもったいないほど、春を代表する立派な食材です。

昔から料理の世界では「春の出会いもの」と呼ばれています。

同じ季節に、海と山という全く違う場所で育った旬のものが、ひとつの器の中で出会う。

すると不思議なことに、若布の柔らかな磯の香りと、筍のシャキッとした歯ざわりや爽やかな甘みが、お互いを邪魔することなく、見事に引き立て合うのです。

このお椀全体をまとめる「出汁」についても、少しお話しします。

蛤を主役にする場合、素材の味をそのまま活かした潮汁(うしおじる)仕立てにすることが多くあります。

けれど、今回はあえて、安来家の王道である「昆布と鮪節」を使った清汁(すましじる)仕立てにしました。

その理由は、先ほどお話しした真薯にあります。

真薯の中に蛤の出汁をしっかりと抱え込ませているため、おつゆの中でほぐれた時に、中から十分すぎるほどの潮の旨みがあふれ出します。

もし、張る出汁まで蛤の潮汁にしてしまうと、少し味がぶつかり、強くなりすぎてしまうと考えました。

だからこそ、旨みを受け止める土台は、いつもの澄み切った昆布と鮪節の出汁がベストです。

厨房で何度も試作を作り、温度を変えて味わいを確認した結果、やはりこの組み合わせが一番だと落ち着きました。

主張しすぎない鮪節のまろやかな風味が、蛤の旨みを下から優しく支えてくれます。

三月のど真ん中をゆく食材を、ひとつの器に集めたお椀。

椀物はコースのなかでも花形と呼ばれる大切な一品です。

お店の席で出来立ての熱々を味わっていただくのはもちろん、ご家庭でのお祝いごとに向けた仕出し料理や、配達でお届けする際にも、この春の香りをお手元で感じていただけたらと思います。

蓋を開けた瞬間の湯気とともに、うららかな春の情景を味わってみてください。

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